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正善院

正善院について

羽黒山荒澤寺正善院はぐろさんこうたくじしょうぜんいんは、もともと能除聖者によって開かれた羽黒山への参拝者を宿泊させるための手向宿坊街の一院で、道路反対側の黄金堂こがねどうを管理する寺院です。江戸時代以降、天台宗寺院として歩んできましたが、現在は羽黒山修験本宗・大本山荒澤寺の本坊として多くの参拝者・修行者の訪れを受け入れています。

文政5年(1855)に手向宿坊街を襲った大火により、多くの寺宝や記録などが焼失し、明治初頭の神仏分離の混乱により史料が散逸してしまいましたが、能除聖者の羽黒山御開山以来、千四百年の信仰を今に伝える重要な役割を担っています。

正善院は、わずかに残った史料をひも解くと、時代の変遷によって山号や寺名が「手向山しゅこうざん」、天保年間には「金堂山こんどうざん長壽寺ちょうじゅじ正善院しょうぜんいん」、さらに「羽黒山 長壽寺 正善院」などと書かれて一定しないものの、かつては手向の宿坊群の筆頭格として、最盛期には三百余坊を配下に収めるほどの威勢を誇っていたとされています。

明治維新後、新政府が強力に推進した廃仏毀釈はいぶつきしゃくの混乱により一時無住となったこともありますが、明治以降は奇跡的に廃寺を免れた羽黒山荒澤寺の本坊として、山号を羽黒山、寺号を荒澤寺と改め現在に至ります。明治以前、正善院の住職は清僧修験(妻帯しない修験僧)が務め、羽黒山上の三先達寺院(智憲院、華蔵院、正穏院)をはじめ、山上の寺院に数多くの人材を輩出しました。また隠居寺としての役割も持ち、高齢となった山上寺院の住職が山を下り、余生を送るお寺でもありました。

江戸時代初期の寛永18年(1641)、羽黒山第五十代執行別当、天宥法印により一山を挙げて天台宗に帰入して以降、永らく東叡山寛永寺の配下に置かれていましたが、明治の神仏分離後は比叡山延暦寺の末寺となりました。その後、第二次世界大戦終結後の昭和21年(1946)、当山八十五世島津伝道により荒澤寺を本山として天台宗から一派独立し、羽黒山修験本宗の本坊として現在に至っています。