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羽黒山のご開山

羽黒山の御開山能除聖者について

崇峻天皇5年(592)、のちの能除聖者のうじょしょうじゃこと蜂子皇子はちこのおうじ(562?~641?)は、御父上の崇峻天皇(553?~592)が暗殺されたことで自らの御命に危険が及ぶことを察知され、聖徳太子(574~622)の勧めにより奈良・飛鳥の都から出羽の地へ亡命されます。そして三本足の烏の先導によって羽黒山へと入山され、山中の奥深く、阿古谷の地で観世音菩薩のお姿を拝し、ひたすら『般若心経』の読誦に明け暮れ、ついに「能除一切苦」という経文のところで開悟に至ったといいます。

その後、人々の求めに応じて病や苦しみを「能く除いた」ことから、皇子は「能除聖者」「能除大師(太子)」などと呼び親しまれたとされますが、こうした伝承は、『般若心経』の教えに基いています。それは、経典に登場する観自在菩薩(観世音菩薩の別名)が、深い智慧の完成を目指して修行していた時、「物質や心のあり方(=五蘊)は皆、実体がなく空である」と観察し全ての苦悩から解き放たれたこと、智慧の完成(=般若波羅蜜)がよく一切の苦しみを取り除く、という『般若心経』の教えに他なりません。

そして能除聖者は、羽黒山から更に月山・湯殿山を開山されますが、月山頂上では阿弥陀如来の御来迎をうけ、湯殿山では大日如来と対面し、尊い火と水の宝珠を授かります。そしてこの宝珠を携えて羽黒山へ戻られ、荒澤の地(現・荒澤寺)に草庵を結ばれ、今日まで続く羽黒山修験道の礎を築かれました。(詳細は荒澤寺の頁にて)

こうして羽黒修験の山伏は、御開山・能除聖者の御修行にならって『般若心経』の読誦と教えを重んじ、三山を巡ることを修行の根幹としています。そして修行を終え下山した後は、人々の悩みを解消し人々や地域社会に貢献してきましたが、そうした姿勢もまた、御開山・能除聖者の歩まれた、菩薩としてのお姿にならっているのです。

羽黒修験へ続く